【回想】#1 境界線が引かれた日

私にとって最初の彼の記憶は、入社前に開かれたランチ会だ。

あれは年の瀬で、クリスマスから年末へと街も人も慌ただしく動いていく時期だった。
私は年明けの入社を前に、そのランチ会に誘われた。
面接に立ち会った人事と、入社先の部長が来ると聞いていた。

緊張しながら到着したビルの前には、「関係者以外立入禁止」の大きな看板。
何度か経験のあることなのに、どうして人間はこんなにも緊張してしまうのだろうと思いながら、入り口で待っていた。

お昼時になり、ビルから多くの人が出入りし始めた。
その中に、面接で顔を合わせた人たちと混じって、彼がいた。

挨拶もそこそこに、よく行くという親子丼の店へ向かった。
彼は名乗らず、顔なじみの仲間と自然に会話を交わしていた。

席に着いて注文を済ませ、ようやく自己紹介が始まった。
会社の話をし、軽くプライベートな話もしたと思う。
彼を見ると、全くタイプではないのに、なぜか“何かが始まる”予感だけが静かにあった。

ランチを食べ終えるころには、緊張はすっかりほどけていた。
彼がタバコを吸いに行くと言うので、私も喫煙者だと伝えると、子どもみたいに八重歯を見せて喜んだ。

「仲間が増えて本当にうれしい。一緒に吸いに行きましょ」

そう言った彼の顔は、今も鮮明に思い出せる。

年が明け、私が入社すると、
あんなに喜んでいた彼は一度もタバコに誘ってくれなかった。
初対面で感じたあの予感は気のせいだったのかと、少し拍子抜けしたこともよく覚えている。

けれど過ぎていく日々の中で、会話は少しずつ増え、
いつの間にか、タバコにも一緒に行くようになっていた。
仲良くなるまで、時間はそれほどかからなかった。

ある日、いつものように仕事をこなし、休憩がてら立ち上がった私に、
彼はこう言った。

「子どもが熱出しててさ。今日は早く帰るわ」

“タバコ行こうぜ”の代わりに告げられたその言葉に、私は一瞬固まってしまった。
慌てて心配する言葉を向けたけれど、胸の奥がささくれたように痛かった。

心の破片をひとつずつ拾い集めながら、私は一人でタバコをふかした。
寒さの中で吐き出された煙の向こうに、
私が惹かれていたものと、越えられない境界線が
ゆっくり浮かび上がって見えた。

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